title

目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切 6-2-1.はじめに 2.相良湊の概要 3.まちなみの現況と伝承 4.まちなみについての課題 5.次年度の課題 6.資料


6-2-6.「考える会」議事録

文責は(社)静岡県建築士会歴史的建築物保存事業特別委員会にあります。


第1回 相良町
歴史財を生かした
町づくりを考える会


平成4年11月9日
13:30ー16:30

出席者
楠田 庄一
相良町長

竹内 明正
静岡県御前崎土木事務所建築住宅課長
川原崎次郎
相良町文化財保護審議会会長
八木  明
前相良町商工会青年部長
(戸塚卯太郎
相良町文化財保護審議会委員)
増田 友一
相良町福岡区長
名波 庄作
相良史跡調査会会員
秋野 幹雄
相良町商工会観光サービス部長
名波 昭子
相良町商工会婦人部長
山下 久雄
相良町まちづくり推進課長補佐
今村 一昌
相良町都市計画課長
大窪 良樹
相良町都市計画課主幹

加藤 俊秀 静岡県建築課

田中
秋山
神埼
矢部
古山
大沢
真鍋
加藤
相良町は牧の原インター、静岡空港等によってインフラストラクチャーの構造が変わろうとしている。

竹内
御前崎港では木材、砂利といった従来の荷扱い品目は最盛期すぎて減少傾向にある。 これからは後背地の産業構造の変化にいかに貢献するかが港の課題。

川原崎
「相良ノ相良タル所以ハ畢竟相良湊有ルガ故ナリ」と言われていた。川口港であるが、鎌倉期からの資料が残されている。 河岸を大切にしたい。
大和明神社のそばにアライサミというものがある。満潮時の海水を相良城の堀に引き入れて堀の水位を一定に保つ為の堰であった。 現在一部が残されている。

増田
相良の町は湊と盛衰を共にしている。
かっては廻船問屋が7・8軒あった。これらを中心にした江戸時代まで、 あるいは東海道線開通後の相良港の移り変わりが主題となるのでは。
西尾太郎兵衛家は明治27年に22代目がなくなっているが、この人は明治になって蒸気船の就航に努力したが、 船の大型化のため外海に桟橋を作ろうとして、大鳥圭介、徳川慶喜等政府の要人に運動したが、東海道線に勝てなかった。
仙台河岸というのも当時の施設であろう。

川原崎
本多越中守の時の相良湊改修の絵図面が残されている。絵図面の類は少ないので貴重。
廻船資料については相良物産にも多数残され、保存されているが、未公開である。
主要荷扱い品目は
米、茶、椎茸、梅干し、梅酢、木炭、ヤシャシブ、松茸、塩松茸、砂糖、木綿、薯切り干、塩、石灰、石油等であった。
ヤシャシブは蚊帳を染めるのに使われた、オオバヤシャブシの実であるが、主として丘陵地に生えるハンノキの一種である。 「榛原」の「榛」との関係はまだはっきりしない。

矢部
市ン場に山口家という廻船問屋もあった。

名波
川口なので砂で埋まる。かっては堰を作って水をいっぱいに溜め、これを切って落して水の勢いで砂を除けていたという。 場所は不明である。
今の子供は年寄りの話を聞こうとしないので将来が心配。

川原崎
相良湊の水深は安政の地震でかなり浅くなった。江戸時代には潮の干満により

湊口;7尺から1丈2尺
橋下;1丈3尺から2丈
といわれている。これが明治になると
湊口;1尺余から2尺4・5寸
橋下;2尺から4尺

となってしまった。

名波
日雇15銭から20銭の頃、ハシケ銭7円であった。名古屋への船賃と金谷への駄賃が同じであった。
石灰は製紙原料として2000俵、石油は明治17年に4000俵を運んだ。

矢部
波津神社が式内社とされているがどうか。

川原崎
鎌倉期以前については資料が少ないが、宗像氏との関係、なども考えられ、湊を中心として相良が有ったものであろう。
相良八景、平田寺十興等というものもある。
波切不動、愛宕岩等が挙げられる。
愛宕岩には江戸時代、鳥居を建てようという試みがあったが、龍神の怒りで沙汰止みになった。 その後航空隊が出来たときには爆撃練習の目標になった。

秋野
湊口の松も相良を代表する景色である。
昭和42年から民宿ということで始めているが、現在のところは単なる海水浴場という以上の活用がされていない。 郷土を愛す、それが観光資産に繋がるということでは先ず自分が相良のことを知らなくてはと思う。

名波
田沼公は火事への備えということで、瓦葺を奨励して、補助金も出したという記録がある。板葺も多かったと言われるが、 海岸の気候にあっているものが選ばれたと思う。
昔は大黒柱には椎の木を使った。長さの取れる大きな木が多かったのだろう。
相良はナライが吹くと逃げようが無い。弁才天、福田、掛塚、赤羽根に入れなくて、 とうとう鳥羽大王崎の大王岩にぶつかって沈んだ船があるという記録がある。

増田
伊豆の港のように山が風を止めて港が深くというものではなかったが、そのかわりに運ぶものがあった。 伊豆は石ぐらいしか運ぶものがなかったのでは無かろうか。相良城も石は伊豆石を使っている。
仙台行の船もあった。熊野からは材木が来た。

名波
名古屋からは瀬戸物、建具、柳を運んだ。柳というのは酒のこと。関東からは薬剤、釘、ガラスなども運んだ。
船頭町というのがあった「お伝安サ」というふうにおかみさんの名前を名前を先に呼ぶということもする。

川原崎
船頭町というのは山下にあった。70ー80軒位。明治8年に福岡全体で220戸であった。 意次公の時に4間道を作っている。市街地防火の為、大沢のお宮から城を曲手に曲がって福岡まで。

名波昭
やはり浜なので言葉が荒く、他所の人はびっくりするくらい。そして人情が厚い。

名波
田沼意尊公のおり、領民が材木を寄進して御殿を建てたという。その木材が今、波津の幼稚園に残っている。

増田
領主様が来ると今日は福岡ということで浜に屋台を組んで鯛やら海老やらで御馳走。次の日は波津で、という様にしたそうである。


第2回 相良町
歴史財を生かした
町づくりを考える会


平成4年12月8日
9:00ー16:00

出席者
竹内 明正
静岡県御前崎土木事務所建築住宅課長
川原崎次郎
相良町文化財保護審議会会長
八木  明
前相良町商工会青年部長
戸塚卯太郎
相良町文化財保護審議会委員
増田 友一
相良町福岡区長
名波 庄作
相良史跡調査会会員
秋野 幹雄
相良町商工会観光サービス部長
名波 昭子
相良町商工会婦人部長
(山下 久雄
相良町まちづくり推進課長補佐)
今村 一昌
相良町都市計画課長

大窪 良樹
相良町都市計画課 オブザーバー
横山 和久
相良町都市計画課 オブザーバー

田中
秋山 
神埼 
矢部 
中山
古山
大沢
真鍋



真鍋
県の方針、来年度、さらに再来年度は町づくりを考える会が町とともに引き続き取り組んで欲しい。平成元年から平成4年までは調査期間、所謂ソフトづくりであったが、来年度からはハードウエア整備事業への取り組みを期待する。

竹内
「相良港ふるさと海岸整備事業」の説明

a. ウオッチング結果で感じたこと、気付いたこと

川原崎
歴史財、地形、地物といったものがすべての基礎になる。

戸塚
町のかお」とは何かを考えてみた。城下町、海、湊、凧、技能、工芸と言ったものが浮かんでくる。海の東海道を考えたとき、景色という面から言えば地頭方が昭和30年に合併して相良となったのであるが、地頭方から見た相良の景観が素晴らしい思う。萩間川からは石灰が取れ、年貢として収めた記録もある。

川原崎
鎌倉河岸は重要である。鎌倉河岸に遊歩道を作り、できればシーサイドパークまで結ぶ、愛鷹岩を見る観光船を考えてもよい。

増田
子供のころとは変わってしまっている。相良橋が変わった。道路のせいで狭くなった。川が浅くなり、今では泳ぐことが出来ない。魚、鰻、海苔も川で採ることはなくなってしまった。川がきれいになれば観光にも役立てることが出きるが、どのような方法できれいにするかを考えなくてはならない。下水を整備して、汚水を川に流さないと言ったことも含め、川に対する構想を立てるべきである。

名波庄作
琴平さんを山から下ろして砂を売ろうと考えてバチが当たった、小堤山を削って売ったらどうだ、という風に、相良では何事も商売を先に考えるということが多かった。商人の力が強かったと考えられるだろう。外堀も外側は町人が自分達で積んだ様な様子をしている。萩間川はうまく蛇行していて、船を付けるのに具合よくできている。景観としても大事にしてよい。

秋野
先祖の築づいたものと言っても、礎石しか残っていないので、なかなか想像するのが難しい。仙台河岸などはかろうじて残っている。かわらないものと言うと、自然とか地形などで、こうしたものはなるべく人の手を加えないで残しておいたほうがよい。石灰山も崩れている。陣太山の景観も崩れている。

名波昭子
今まですんでいるところをじっくり見る機会がなかったので、良い機会であった。残されてきた町の姿を子供達にもちゃんと伝えてやりたい。それと同時に、御前崎の白羽ではサーフィン大会をやっており、片浜にヨットハーバーを作ってはどうかと言われているようだが、相良も他所から人が来て海に親しむような工夫をもっとしてもよいのでは。

八木
鎌倉河岸の下の樋尻川は、かっては船が入ったと言われており、もっと広くてもよいはずなのに現在では狭くなってしまっている。元に戻すのが無理なら面影だけでも残るような工夫をしたい。湊の面影がちゃんと分かるように浚渫などをするべきだ。

秋山
商店街にしてもやみくもにビル化してしまうだけでなく、昔の面影を残す工夫もあるのでは。

秋山
住んでいるのが榛原なので、今日のような話しは今まで聞いたことがなかった。こうした話しが若い人にもちゃんと伝わるようにしておかないと、次なる発展は望めないのではないか。

神崎
私も榛原である。榛原町も竹田と徳川の戦以来、歴史のあるまちであり、石雲院等古い寺はあるが、相良のような立派な歴史は残っていないのでうらやましく思う。

矢部
常々「私のところの庭には大きな池があり、きれいな築山もある。」と言っている。相良の人間にとって、富士山が見えるのは当たり前。となっているが、もう一度これを見直して、より美しく見えるには、より美しさを活用するにはどうしたらよいかを考えてもよいのではないか。松並木と富士山がよく合うと思う。最近松が枯れているが城力を大事にしたい。せっかく自然に恵まれているところなので、乱開発しないようにしたい。

竹内
川沿いに昔の面影の残る建物でもあれば、と思う。事業の方からは、堤防の改修をする際に「城の石垣のイメージで」などという考えも出てくるが、そうしたことももし本物が残っているのであれば、そちらの方を手当てするのが先であろう。残っているものがあるとすればこれ以上のものはない。相良橋にしてもいずれは付け替えなくてはならないが、そうしたおり、あるいは堤防、水門などの整備に際しても、そうしたことを応用し、残されたものと調和出来ればそれに越したことはない。

大窪
瓦屋根が印象的であった。相良の景観を活かすには萩間川の浚渫を考える必要があるだろう。そのた、湊橋の掛け替え計画もあるが、そうした際、昔の橋をイメージするような高欄などについてもきちんと考えたい。

横山
現在の相良の生活は歴史にうといものがある。このごろの若い人の考えは、住宅にしても「洋風がかっこよい」と考えてしまうが、少しでもまちの中に昔風の建物が建てられたらと思う。せめて川の側だけでも昔をイメージさせる建物が建つと良いのだが。

川原崎
史跡、名勝、記念物といった先人が大切に守り、我々に伝えられたものについて、今の世の人はあまりにも無頓着である。例えば愛鷹岩へ遊山にでかけるというのは相良独自の文化伝統である。明治時代には旧暦3月12日13日に潮干狩に行くというもので、家康公の船遊山を手本にしたものだが、明治のころに較べはるかに後退している。そうした相良独自のレジャーもあってよいのではないか。町の景色でも、家康公が見たとおり、城から見る不動山が一番形がよい。萩間川にしても戦争前まではちゃんと浚渫をして、昔の景色を残していた。今のように水がないのでは景色がよくない。

真鍋
ここには素晴らしいネタがある。若い人のスポーツ、レジャー関景の施設を作るのもよいと思うが、川沿いの景観をどう飾るか。建物、水質、石垣などを生かして文化的、歴史的なものを作ってみてはどうかと思った。

古山
一番驚いたのは仙台河岸であった。町の古い写真集を見て、昔は凄いものがあったんだな、と思っていたが、今日見て改めてびっくりした。

大沢
相良は凄い歴史をもっている。仙台河岸のあたりは是非何かに活用できるのではないかと思う。遊歩道などあれば楽しめるのではないか。川と港が一つのテーマになって何か特徴のあるものが出来ると思う。

b. 「相良らしさ」あるいは「相良自慢」について

  • 田沼さんのお城
  • 小学校の松
    大手であり、最も相良城の面影を伝えている。
  • 御榊神事
    菅ヶ谷にある
  • 大事なものを壊してしまう・・・悪い意味での「らしさ」として
    相良城も12年で壊している。最近の例では煉瓦造りの製氷工場、貸座敷「岡本楼」
  • 独自の味覚文化
    相良海老、かじめ、相良布、さわら、昔は料理屋が多かった。

  • 流す凧である。昔は正月頃から子供が上げ始め、五月の節句までやった。相良と福岡の対抗でやったこともある。今は連休に紅白対抗でやっている。
  • 御船神事
  • 石油
    明治16年石坂周造が始めたものが近代的な機械堀井の始まりであり、新潟よりも古い。
  • 萩間川
    1ー1.5m程度掘り下げれば昔のような姿になる。近代に入っても、矢部工業の50トンくらいの石炭船が入っていた。

c.私の「相良八景」

  • 役場から見た萩間川
  • 相良港から見た富士山
  • 地頭方港から見た富士山
  • 太田浜から見た富士山
  • ポケットパークから見た富士山
  • 海岸から見た日の出
  • 海から見た全景
  • 波津の防風林
  • 愛鷹岩遠望
    イシダイ、カジメ、などが採れる。日清、日露戦争のころには蚫の養殖をやって輸出したこともある。
  • 屋根の上に富士山が見えるのはいけない。やはり海がないと。
  • 遠渡坂から見た富士山
  • 茶原から見た富士山
  • 湊橋から不動山
  • 山門から平田寺
  • 二階松
  • 中心街の新しい街路沿いの夜景
  • 温泉
    熱水型温泉が湧くという調査報告がある。通年型観光にとって貴重な資源となる。
  • 男神、女神
  • 小堤山
    秋葉山、灯台の跡、半僧坊、現状では子供が遊べない。

f. 「やってみたいこと」

戸塚
仙台河岸を活かす。金谷町の「石畳のある街」のような活かし方が出来ればよいのではないか。石灰山も活用したい。萩間川を浚渫する。

増田
現状では海水浴も雨が降ればダメである。海岸に全天候型の海水プールを作りたい。

名波庄作
古い建造物を残すことを考えたい。相良城の陣屋であった建物が幼稚園に残されているが、これを残したい。紋瓦、献木で作られたので、寄付した人の名前などが残っている。

秋野
通年型観光に向けて小堤山をどう利用できるかを考えたい。松が枯れている、逆に木立で街が見えないなど手を入れることが考えられる。遊歩道等を付けたい。

名波昭子
子生まれ石は珍しいものなので多くの人に見せたい。陣太鼓も他所の人に知ってもらいたい。

八木
こうした形で相良のまちづくりを語るという機会は始めてなので有意義である。これからもこうした会を続けたい。細くであっても長く続けることで必ず成果が上げられると思う。

竹内
昔のものは手当てをしないとどんどん無くなって行く。地域に伝えられたものの中から「これが相良だ」と言うものを育てて行けば、文化的にもこれからの海岸地帯の中核となりうる。

川原崎
  1. 温泉、ガスを観光に利用する。
    通年型観光にとって貴重な資源。年間70万人ー80万人位の観光客を呼びたい。
  2. 愛鷹岩の船遊山を復活する。
    人工島を作って海洋レジャーなどと言っているところもあるようだが、家康公以来の船遊山の方が洗練されてはいないか。釣掘のような活用法もあるだろう。
  3. 男神、女神の石灰山を活用する。
    珊瑚礁による石灰の露頭であり、貴重なものである。かっては庭園が作られたこともあり、月見が催されたこともある。天明の頃の筆塚も残っているように文人が 集ったところである。


矢部
玉石の間知石積みは現在では貴重な技術となっている。例えばこれを利用して仙台河岸に遊歩道を作り、両側の民家を整備すればここが風の通り道とはならないだろうか。ただし相良は全体に地盤の悪いところなので、昔の人がどのような工夫をしていたかをきちんと捕えなくてはならない。増水時の放水路なども皆でまちづくりの話しを検討して行くべきだ。

古山
モンタレーの事例説明

次回は平成5年2月2日午後1時30分より

「考える会」の続きを来年度も続けるという方向で考えて行きたい。
「まちなみデザイン推進事業」という制度もある。
「考える会」のような団体が会費を集めてまちなみを考える。それを町、県、国が支援するというもの。


参考図書

相良町新総合計画相良町相良町平成2年
編年相良町史川原崎次郎相良町教育委員会昭和41年
東遠の港と御船神事中村福司 書店「史学」昭和52年
遠江の相良氏川原崎次郎川原崎次郎昭和56年
相良町史資料編近世一相良町相良町平成2年
ふるさと相良・懐かしの写真集 相良町史蹟調査会相良町史蹟調査会平成2年
宝暦・天明期の幕政大石慎三郎岩波講座日本歴史1977年
日本の近世・6情報と交通丸山雍成・編中央公論者1992年
探訪大航海時代の日本・5杉山 博・編小学館昭和53年
復元日本大観・船石井謙治・編世界文化社1988年
皇室の至宝 絵画I徳川義寛・監修毎日新聞社平成3年