title

目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切 1.はじめに 2.掛塚湊の概要 3.まちなみの様子 4.望ましい掛塚湊のまちなみ 5.これからの課題 6.資料







6-5-2. 掛塚湊の概要

2-1.所在

掛塚湊は天竜川の河口に位置し、現在の行政区画は磐田郡竜洋町に属する。 歴史的に竜洋町最大の集落であり、現在も竜洋町の地域イメージの中心である。 竜洋町では太平洋戦争当時、天竜川東派川河川敷に陸軍飛行学校が設置され、 戦後、天竜川東派川旧河川敷の416haが一般に利用可能となった。 このため近代的、開発的な土地利用はこの敷地を利用することが可能であった。 このことが掛塚湊が近代的都市化圧力に良く耐えて歴史的なまちなみを現在まで保ってきた一つの理由と言える。

平成2年度刊行の「新竜洋町総合計画」でも、国道150号線沿線、飛平松工業団地と共に、 天竜川と旧天竜川東派川に囲まれた地域を都市的利用を計る地域として構想しており、 現在の市街化区域も旧掛塚湊周辺、天竜川東派川旧河川敷と、新しい飛平松工業団地となっている。 これからの都市開発を考えるに際しても、以上のような経緯を踏まえ、 旧掛塚港が地域イメージの中心となることが地域の特色として望ましいものと考えられる。

そのためには一般的な都市開発においてみられる、中心に近づくにつれて近代的な都市密度を上げる、と言う手法でなく、 旧掛塚湊を竜洋町の「へそ」と考えて、地域の伝統を生かしたまちなみ整備を行ない、 これを天竜川東派川旧河川敷を主体とした近代的都市利便施設が取り囲むという市街地イメージが考えられる。

戦後の竜洋町は浜松市、磐田市という西遠広域都市圏の主要な中核都市の中間に位置するという立地に恵まれ、 現在に至るまで農業地域から農業、工業、商業のバランスのとれた都市へと順調な発展を続けている。 将来における竜洋町の在り方も、広域都市圏のなかの田園工業都市として構想されているが、 旧掛塚湊は歴史財という、他に見られない魅力を持つ地域の核として、これからますます重要になるものと思われる。

同心円的な市街地の形態は都市交通からは最も経済的なものであるが、全体の都市密度が上がる場合に、 それまでの都市環境資産を犠牲にしなければならない部分が発生する。 また地域全体がより大きな広域都市圏に含まれていれば、広域都市圏の密度が上がるにつれて、 より大きな核都市の周辺に容易に埋没してしまう。

これに対して竜洋町の市街化区域は、 将来的な都市化の進行に対しても掛塚と言う地域の象徴的な核を守りつつ、 高度な都市化を実現できる構造を持っていると言える。


天竜川沿いの材木河岸と霞堤
(建設省浜松工事事務所所蔵、明治6年1/500測量図より転載)
2-2.地形

竜洋町全域が天竜川の氾濫原にあるため、町内は殆どが平らであり、掛塚湊の全域もまた平らである。 金洗地区等には、一部天竜川の旧河道沿いに自然堤に近い地形が見られるものの、 長年の間に人間の手が加わった形で残されている。掛塚周辺に見られる地形は、 全てが人間の手によるものと考えてよい。

かっての掛塚湊は現在の天竜川本流と、東大塚村から東流れる支流によって全体が輪中を形作っていた。

現在の地形を特徴付けている最大のものは、言うまでもなく天竜川の堤である。 掛塚地区の西側に、市街地主要部からは4ー6mの高低差をもっており、 堤から見るまちなみは掛塚のまちの姿として良く親しまれて来たものである。

「あばれ天竜」の岸辺での暮らしはどこでもそうであるように、 掛塚の歴史もまた天竜川の水をいかに防ぐかにかかっていた。 そして残念なことに水を防ぐのに際しては、 常に「対岸より堤を高く」が長い間の習慣と化していたことも事実である。 掛塚村の出身者が天竜川の対岸に作った弥助新田と古川寄合新田も、 そうした意味からはまことにむつかしい経営をしいられていたであろうことは想像に難くない。 二つの新田は最終的に昭和2年、天竜川改修工事のために離村した。

明治22年測量の地形図を見ると、天竜川下流の流れが明治以降の改修工事で大きく姿を変えていることがよく分かる。 中之町村国吉から西へ分流して安間川に合流する流れ、掛塚村西側の現在の流れ、 東大塚村で東へ分流する東の流れのいずれもが、天竜川の本流という様相を示している。 乱暴に言えば現在の天竜川の流れが1/3づつに分かれ、 そのうち二つが掛塚港を形成していたと言ってもよいであろう。 現在の姿からは想像しにくいが、天竜川本流の水勢が現在の1/3であったと考えれば、 掛塚村西側の天竜川沿いに材木河岸が立地出来た様子が想像できる。 近代以前の掛塚湊の様子を知るためには、明治23年の地形図を参照されたい。

3本に分かれていたほうが治めやすいのか、1本にまとめたほうが治めやすいのか、 という治水の方針を決めるに際して、天竜川下流域で採られた考え方は、 3つの流れを一つにまとめるというものであった。 天竜川の本流が最後に治水工事の限界を乗り越えたのは昭和19年であり、 このときには洪水は、歴史的な旧河道を走ると言われるとおり、安間川から堤を越えて芳川へと抜けている。

このような立地にあるため、かっての掛塚では、豊富な伏流水によって至る所に井戸が設けられており、 堀割りが縦横に走る水郷であったことも伝えられている。


掛塚湊近傍
(皇国総海岸図 安政2年 1855年より)



皇国総海岸図には掛塚湊の近くに「天竜洋」と書き込まれています。遠州灘を指すものと思われます。


現存する伊豆石の倉


豊長社の近代築港


大日本帝國陸地測量部
明治23年測量、明治25年刊
二万分一地形圖「濱松」「見附」「五島村」「袖浦村」より。



国土地理院
昭和45年改測、平成3年刊
1:25,000地形図「磐田」「掛塚」より。



掛塚湊街路網。
2-3.沿革

室町時代以降の文書に散見される「縣塚」「欠塚」は、戦国時代には今川領に属し、 水軍の駐留する領内の重要な湊となっていた。

徳川時代にはいると、浜松藩の外港として整備され、急速に脚光を浴びることとなった。 松島家(浜松市松島町)では元禄16年(1703年)には掛塚湊を使って江戸廻船を営んでおり、 前々から浜松藩主の年貢米、薪、炭、茶等の荷物を江戸へ輸送していると述べている。 天保6年(1836年)には浜松藩水野家は「お手船」450石積1艘を掛塚湊に繋留していた。 水野家では更に掛塚湊を浜松藩に組み入れようと計ったが、幕領であり、果たせなかった。 浜松藩では城下から馬込川を経由して掛塚湊に至るため、源太夫堀を整備した。 掛塚港でも天保2年(1831年)には船主19名、700石積み前後の廻船40隻が所属していたことが見える。

掛塚湊は浜松藩、中泉代官所管内、あるいは遠州平野に所領をもつ旗本の、 江戸廻米積み出し港として重要であったばかりではない。 信州、三河、北遠の山々には杉、桧、椹等の良材が豊富であり、 これを米に代えて年貢とする「榑木成村」が天竜川上流では43ヶ村を数えた。 天竜川の舟運は幕府の命により角倉了意の指導するところとなり、 天保2年の竜山村の運賃記録によれば、 杉、檜、松、唐松、栂、桂、樫等の木材、杉大貫、杉板、杉小割、柿板(こけら)、 松敷居、松垂木等の製材、木炭、茶、杉皮、生姜、畳表、瓦、青石、干栗、松茸、傘、紙、串柿、 竹皮等の雑貨が天竜川を下ったことがうかがわれる。 角倉舟と呼ばれる川舟で掛塚湊に運ばれた物資は、ここから江戸表へ荷出しされた。 江戸の木場に天竜材専門の材木商があったことを考えても、天竜川を下り、 掛塚湊から積み出された木材が、いかに重要な物資であったかを示している。 掛塚はまた同時に天竜川上流域の人々にとって、米、麦、塩、味噌、醤油、酒、といった日用品だけでなく、 江戸から運ばれたものを手に入れることの出来る交易の中心地でもあった。

掛塚湊の港湾施設で当時の姿をとどめるものは殆ど残されてない。江戸時代の河口港の一般として掛塚湊も岸壁を持たず、 河岸で小舟に積み込んだ荷を沖合で廻船に積み込む、大船が湊に入るのは風待ちのとき空船で、 という姿であったと想像される。 筏寄せ場、天竜川を下ってくる川舟を廻船に中継する河岸などが掛塚の輪中を形成する、 天竜川と旧天竜川東派川に多数形成されていたことと思われる。 また坊僧川からの水路が岡付近まで延びており、駒場の廻船問屋の存在と合わせて考えると、 中泉代官所差配の江戸廻米については河川舟運が利用されたことも否定できない。

天竜川、旧天竜川東派川については川口が砂で埋まることは必然であり、豪雨の際、 鉄砲水が堆積した砂を排除する自然の働きを前提にした湊であったと考えられる。 掛塚の地は長い年月の間に、そうした天竜川の自然が作り出す湊としてえらばれた場所であった。

地域の湊としてだけでなく、掛塚湊は遠州灘という、江戸と上方を結ぶ廻船の航路にとって、 最大の難所である遠州灘に位置している、という特徴を持っていた。 しかし鳥羽、下田のように荒天に安全な泊地を持っているわけではなく、 天竜川口の「一里の瀬」に面する掛塚は、避難港としては利用することが難しかったことが想像される。 東に向かう廻船は、遠州沖に至った船と言えども難風にあえば、鳥羽に引き返し、 下田湊から西に向かう船も、途中難風が吹けば再び下田港まで逆行するのが普通であったと言われている。 安政6年(1859年)のアメリカ船難船を含み、掛塚沖で遭難した船の海難救助の記録も多く残されており、 当時の有様を物語っている。

掛塚湊所属の船が江戸で荷物を下ろした後、空船で帰港するのは航海上危険であった。 そのため途中伊豆下田湊周辺で伊豆石を積み込んで船の重心を下げ遠州灘の荒波を乗り越えて帰港したといわれる。 現在でも掛塚の町中で廻船問屋の有った旧家のあたりで伊豆石をつかった石垣塀や倉が多く見られるのは当時の名残である。

明治に入り、それまで、千石船を佃島舟溜に泊め、川船で日本橋等の倉の前まで運ぶという港湾荷役の方式が大きく変わり始めた。 千石船が洋式帆船に代わり、沖取りの川船艀を使わないで、 大型船が直接に接岸出来る近代的な埠頭が横浜、神戸を始めとする港に次々と整備されて行った。 清水のように水深の有る入り海を持たない掛塚港で、こうした近代的港湾施設を実現するには、 現代の福田港に見られるのと同様、堀込み港によるしかなかった。 掛塚湊の廻船問屋は、現代のように機械力を殆ど使うことの出来ない時代、 政府援助も無く、純然たる民間事業として近代築港の実現に着手した。 近代化に独力で立ち向かった掛塚を象徴する、豊長社築港は明治18年に完成している。

海運業の近代化を豊長社築港によって成し遂げた掛塚海運業界はしかし、 鉄道という前代未聞の新交通輸送機関を含めて、 日本全土の輸送システムがドラステイックに変貌するところにまでは対応しきれなかった。 製材業など個々の企業家は、明治22年開通の東海道鉄道に拠って、中の町周辺に進出したが、 すでに掛塚湊として鉄道に対抗することはなかった。 掛塚湊は物資輸送ターミナルとしての使命をここに終えた。