2-3.沿革
室町時代以降の文書に散見される「縣塚」「欠塚」は、戦国時代には今川領に属し、
水軍の駐留する領内の重要な湊となっていた。
徳川時代にはいると、浜松藩の外港として整備され、急速に脚光を浴びることとなった。
松島家(浜松市松島町)では元禄16年(1703年)には掛塚湊を使って江戸廻船を営んでおり、
前々から浜松藩主の年貢米、薪、炭、茶等の荷物を江戸へ輸送していると述べている。
天保6年(1836年)には浜松藩水野家は「お手船」450石積1艘を掛塚湊に繋留していた。
水野家では更に掛塚湊を浜松藩に組み入れようと計ったが、幕領であり、果たせなかった。
浜松藩では城下から馬込川を経由して掛塚湊に至るため、源太夫堀を整備した。
掛塚港でも天保2年(1831年)には船主19名、700石積み前後の廻船40隻が所属していたことが見える。
掛塚湊は浜松藩、中泉代官所管内、あるいは遠州平野に所領をもつ旗本の、
江戸廻米積み出し港として重要であったばかりではない。
信州、三河、北遠の山々には杉、桧、椹等の良材が豊富であり、
これを米に代えて年貢とする「榑木成村」が天竜川上流では43ヶ村を数えた。
天竜川の舟運は幕府の命により角倉了意の指導するところとなり、
天保2年の竜山村の運賃記録によれば、
杉、檜、松、唐松、栂、桂、樫等の木材、杉大貫、杉板、杉小割、柿板(こけら)、
松敷居、松垂木等の製材、木炭、茶、杉皮、生姜、畳表、瓦、青石、干栗、松茸、傘、紙、串柿、
竹皮等の雑貨が天竜川を下ったことがうかがわれる。
角倉舟と呼ばれる川舟で掛塚湊に運ばれた物資は、ここから江戸表へ荷出しされた。
江戸の木場に天竜材専門の材木商があったことを考えても、天竜川を下り、
掛塚湊から積み出された木材が、いかに重要な物資であったかを示している。
掛塚はまた同時に天竜川上流域の人々にとって、米、麦、塩、味噌、醤油、酒、といった日用品だけでなく、
江戸から運ばれたものを手に入れることの出来る交易の中心地でもあった。
掛塚湊の港湾施設で当時の姿をとどめるものは殆ど残されてない。江戸時代の河口港の一般として掛塚湊も岸壁を持たず、
河岸で小舟に積み込んだ荷を沖合で廻船に積み込む、大船が湊に入るのは風待ちのとき空船で、
という姿であったと想像される。
筏寄せ場、天竜川を下ってくる川舟を廻船に中継する河岸などが掛塚の輪中を形成する、
天竜川と旧天竜川東派川に多数形成されていたことと思われる。
また坊僧川からの水路が岡付近まで延びており、駒場の廻船問屋の存在と合わせて考えると、
中泉代官所差配の江戸廻米については河川舟運が利用されたことも否定できない。
天竜川、旧天竜川東派川については川口が砂で埋まることは必然であり、豪雨の際、
鉄砲水が堆積した砂を排除する自然の働きを前提にした湊であったと考えられる。
掛塚の地は長い年月の間に、そうした天竜川の自然が作り出す湊としてえらばれた場所であった。
地域の湊としてだけでなく、掛塚湊は遠州灘という、江戸と上方を結ぶ廻船の航路にとって、
最大の難所である遠州灘に位置している、という特徴を持っていた。
しかし鳥羽、下田のように荒天に安全な泊地を持っているわけではなく、
天竜川口の「一里の瀬」に面する掛塚は、避難港としては利用することが難しかったことが想像される。
東に向かう廻船は、遠州沖に至った船と言えども難風にあえば、鳥羽に引き返し、
下田湊から西に向かう船も、途中難風が吹けば再び下田港まで逆行するのが普通であったと言われている。
安政6年(1859年)のアメリカ船難船を含み、掛塚沖で遭難した船の海難救助の記録も多く残されており、
当時の有様を物語っている。
掛塚湊所属の船が江戸で荷物を下ろした後、空船で帰港するのは航海上危険であった。
そのため途中伊豆下田湊周辺で伊豆石を積み込んで船の重心を下げ遠州灘の荒波を乗り越えて帰港したといわれる。
現在でも掛塚の町中で廻船問屋の有った旧家のあたりで伊豆石をつかった石垣塀や倉が多く見られるのは当時の名残である。
明治に入り、それまで、千石船を佃島舟溜に泊め、川船で日本橋等の倉の前まで運ぶという港湾荷役の方式が大きく変わり始めた。
千石船が洋式帆船に代わり、沖取りの川船艀を使わないで、
大型船が直接に接岸出来る近代的な埠頭が横浜、神戸を始めとする港に次々と整備されて行った。
清水のように水深の有る入り海を持たない掛塚港で、こうした近代的港湾施設を実現するには、
現代の福田港に見られるのと同様、堀込み港によるしかなかった。
掛塚湊の廻船問屋は、現代のように機械力を殆ど使うことの出来ない時代、
政府援助も無く、純然たる民間事業として近代築港の実現に着手した。
近代化に独力で立ち向かった掛塚を象徴する、豊長社築港は明治18年に完成している。
海運業の近代化を豊長社築港によって成し遂げた掛塚海運業界はしかし、
鉄道という前代未聞の新交通輸送機関を含めて、
日本全土の輸送システムがドラステイックに変貌するところにまでは対応しきれなかった。
製材業など個々の企業家は、明治22年開通の東海道鉄道に拠って、中の町周辺に進出したが、
すでに掛塚湊として鉄道に対抗することはなかった。
掛塚湊は物資輸送ターミナルとしての使命をここに終えた。
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