title

目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切 1.はじめに 2.掛塚湊の概要 3.まちなみの様子 4.望ましい掛塚湊のまちなみ 5.これからの課題 6.資料







6-5-3.まちなみの様子

3-1.掛塚湊とまちなみ

かって海運業で栄えた掛塚は、現在、商業、工業の中心地であった時代の面影を残しつつ、 住宅地としての性格を次第に深めつつある。住む場所としての掛塚を考えた場合、 新しい住宅地とは様々な点で異なった特徴を持ってる。

例えば、住民の年齢にも片寄りが見られる。竜洋町は全体では高齢者率は11%程度であるが、 地域的な片寄りがあり、町内会毎に統計をとってみると、新しい市街地では2%程度であるものが、 掛塚では20%から最高26%となっている。この背景には竜洋町内でも現在、掛塚湊の時代とは異なり、 若い人は外にでて仕事をすることが多くなっていることが挙げられる。住宅を新築するに際しても、 新しい住宅地をえらぶことが少なく無い。それが影響して、掛塚には新しく住みたい人が入りにくい、 と言う状況も出てきている。こうした年齢構成から掛塚地区では、空家が増える、分譲が出る、 あるいは取り壊されて駐車場になってしまう、そうでなくても老人世帯が増える、 という点が住宅地としての掛塚を形作っている。

住居地域としての掛塚の現況

掛塚が住居地域として住みにくい理由としてあげられるのは、

  • 道が狭い

  • 家が道一杯に建っている

  • 古い

  • 商店が遠い
といった点であり、自動車交通、特に自家用車の使用が難しいことが、近代的都市的利便施設の不足と相まって、 掛塚を現在の住宅環境としては、機能しにくくしていると考えられる。

しかし住宅地としての掛塚はこれと同時に、

  • 静かな生活

  • 安心感

  • 都会にはないコミュニティー

  • 美しい

  • 温かみ
という評価を得ている。こうした評価は単に掛塚に生まれ、育ち、住んでいる人に限られたものではなく、 新市街地に生活を営んでいる人であっても、竜洋町の町民に広く共有される感覚であろう。 こうした地域の利点をそこなうことなく、 近代的な利便性が補われれば掛塚は住居地域としても魅力的なまちとなるであろう。





掛塚木橋の跡から南を望む


本町通り


「おくどおり」の槙囲い
くっきりとした計画性を持つ西光寺の参道



町指定有形民俗文化財 掛塚屋台  「竜洋町の文化財めぐり」より
掛塚のまちなみの特徴

また、現在の掛塚のたたずまいは、広く遠州に知られた掛塚港の繁栄を知る人々、あるいはそうした知識無しに掛塚を訪れた人々とも共有できる魅力を持っている。貴船神社の祭りでは、そこに集まる人々の心意気と共に、屋台、天幕、お囃子などから、長い歳月を掛て蓄えられた竜洋人の心意気を目のあたりに出来、掛塚が竜洋町民の「心意気」であることが、充分に体得できる。

本町通りでは通り沿い景観としては商業目的の近代的な景観構成が主調となっており、 「掛塚らしさ」は現在のところ路地の様なところに多く見受けられると考えてよい。 しかし個々の建物には歴史的な要素が残されている。現在の掛塚地区全域にわたるまちなみで、 このような優れたまちなみ景観を構成する要素としては、

  • 縦横にきちんとした計画的街路構成

  • 槙囲いのある路地ー現在の都会にはありえないコミュニティー装置として機能している。 ー当時の面影を残す路地が歩きやすく配置されている。案内板等を整備すれば観光に利用できるのではないか。

  • 小路の奥の石倉

  • 瓦並ーかっての繁栄を伝え、「ここに故郷あり」という感じがする。

  • 伊豆石ー江戸廻船が帰りに空荷のままでは遠州灘を渡れないので伊豆でバラストとして積み込んでもたらした。 防火壁に使われた。明治32年の大火では川輪からの飛び火で700戸が消失している。昭和19年の地震で倒壊したものも多い。

  • 格子

  • 廻船問屋
といったものが挙げられる。

また文化財、あるいは生活文化を継承する歴史財として考えられるものには、

  • 寺ー寺の多いところである竜洋全体で21ヶ寺、廃寺が24ヶ寺以上ある

  • 貴船神社

  • 白羽神社

  • 稲荷ーかっては材木を商う人が屋敷内に祭ったものである。移転にともない町内で祭るようになった。ー普通山から裾を向いているが川に向かって拝むのは水運との関係であろう

  • 祭り

  • 屋台

  • 暮らしと商いの共存

  • 魚屋ー100m以内に7軒が集中しており、現在も5軒が浜松方面等への業務用卸しを含み、営業している。遠州灘においては福田と掛塚が魚河岸の双璧だった、かっての港の賑わいを伝えるものである。

  • 酒屋 ー松下酒店には当時の屋敷内の建物が残されており、ツルヤ酒店には店先が昔の雰囲気を伝えている。
といったものが挙げられる。




本町通りを「淋しく」する駐車場
まちなみの将来への懸念

しかしこうして竜洋町民が価値を認める掛塚湊のたたづまいも、現在までのところ、 積極的に守られてきたといよりは、 「掛塚湊の概要」に述べたような恵まれた環境の中で消極的に守られてきたというほうが適切である。 そのため将来に対して次のような懸念が表明される。

  • 掛塚港も繁栄したころの面影が残っていないのが残念。

  • 廻船問屋、伊豆石の倉、格子といった湊に関する歴史財の建て替えは難しそうである

  • なんとかしてこうした歴史的な環境を伝承したい。「掛塚の祭り」「町並み」といったものは大切な資産として守って行きたい。

  • 子供の頃からずいぶん変わってしまっている。

  • 放置すれば老朽化してしまう。

  • すぐにでも建て替えがされそうだと感じた。空き地に対するミニ開発が目についた。 手を打たないと急速に消えつつあるなという感想である。

  • 整備をしなくてはならないときに来ていると思う。一般的な区画整理が行なわれれば、 古いものが消えてしまい、いかにも残念である。一箇所に集めるのは大変なことであると思う。

  • 成り行きに任せておくと次第に不良街区と化してしまうので対策を考える必要がある。

まちなみ活用の施策

また、現在のところでは、このようなまちなみ資産を広い意味での地域づくりに活用しようという、 積極的な試みは従来型の観光開発に限られていおり、次のような状況である。

  • 掛塚という地域を竜洋町の観光の現況は、遠隔地からの呼び込みを考えられるものは掛塚祭りと海洋公園と言うところである。

  • 祭りの屋台を中心に観光だけでなく、商業活性化も図ろうとしている。呼び込みと共に地元の啓蒙にも役立てようということで、 観光カレンダーを作成している。10年分くらいためると写真集が出来上がるというものである。



掛塚の屋並と天竜川の土手。


かって河岸が発達した天竜川の水際。
3-2.川とまちなみ
川のもたらすまちなみの特徴

掛塚湊の繁栄をもたらした背景が天竜川の河口に位置していたことにもよる通り、地理的、自然環境的資産についても、歴史的な自然とのかかわりを念頭に、次のような特徴が挙げられる。竜洋町全町が天竜川とかかわる中で、掛塚はその象徴して位置づけられる地域と考えられる。

  • 水と光と緑のまちー現在の竜洋町のキャッチフレーズである。水は井戸のもととなる天竜川の伏流水、広く舟運を通ずる水路、廻船湊である

  • 川の恵みーかっては貴船神社を核とし、天竜川流域、遠州灘全域を覆う掛塚のコンセプトがあった。掛塚は太古から川の文化と海の文化の交差点であった。

  • 湧き水ー昔は天竜川の伏流水から湧き出る流れが沢山有ったが、現在ではそうした流れも楽しめるものではなくなりつつある。

  • 天竜川の水運で栄えた町

  • 井戸ー佐久間ダム、秋葉ダムが出来るまでは自噴していた。水受けを三段に作り、飲料ー炊事ー洗い物、洗濯に使っていた。近所にも分ける様になっていた。

  • 山が無い

  • 天竜川の入り日

  • 地球が丸く見える

  • 冬は野鳥、春はウィンドサーフィン、夏はイサダ、秋はボラ

  • 屋並の向こうに富士

  • 川沿いに稲荷がいくつもあるのは海運との関連である。

地理、自然的環境を活用する施策

現在、竜洋町で掛塚地域に整備している公園には、歴史に基づいた地理的、自然環境的資産の利用という観点を含み、次のような施策がとられているが、周辺に豊富に現存する掛塚湊の歴史財と一層関連を深めた保存利用が望まれている。

  • 林の池の夜桜ー現在、公園として整備しているが、かっては掛塚湊の舟運に利用された堀割りの跡であり、湊の面影を伝えるような整備が望まれる。

  • 天竜川ー管理上遊泳禁止で子供達が親しめないのが残念、河川敷に公園を作り水を引き込んで流せないかを検討中である。





国道150号線交差点付近


本町通り沿いの古い店構えー下の中屋


旧掛塚郵便局
3-3.本町通りの現況

本町通りはかって掛塚のメインストリートであった街路であるが昭和30年の国道150号線の開通によって現在では150号線沿線が近隣商業地域として指定されている。しかし掛塚湊当時から商業的利用が主なものであり、現在の本町通りも、150号線交差点付近を中心として商業目的の利用が主調となっている。しかし、150号線沿線、旧天竜川東派川河川敷の新市街地に較べると商業近代化に不利であり、商業地としては次のような問題を含んでいる。

  • 掛塚の街と言っても、外から来ると150号線から中に入らないで通り過ぎてしまうことが多い。

  • 昔は通りで買い物が済んだが、今では商店が郊外に出てしまって買い物に遠くまで行かないといけない。日常生活では有り難くない。

  • 道が狭い→若い人は新市街地に住宅を新築→親を呼ぶ→空き家→駐車場になる→地上げ/細分化して分譲→車が増える

  • 平均的な敷地割りは100ー150坪、細長い

  • 細分化に対しては50坪以上という指導をしている。

これと同時に本町通りでは掛塚湊の繁栄の時代を継承する次の様な特徴を現在も伝えており、将来的な商業の近代化と、かっての掛塚湊の目抜き通りであったころの面影を伝えるまちなみ再生とを両立させる工夫が望まれる。さらに一歩進んで考えれば、歴史的なまちなみ再生を商業活性化に結び付けたい。

  • 旧郵便局、鶴屋酒店、尾崎医院、稻勝邸、松下酒店など、貴重な建物が残されている。

  • 家がびっしり並んでいて、昔の繁栄の様が伝わってくる。本町から新町への道はそうした時代の道のままで一本残っている。

  • 商家、民家の格子戸も残っていて、なるほど、昔はこういう作りだったなと思いださせる。伊豆石の倉も思ったより沢山残っている。

  • 旧家では古くから瓦屋根であり、土蔵を幾つも建てた。今見ても繁栄した街だなということが解かると思う。

  • 祭りの神輿は貴船神社を出ると元宿から蟹町まで巡行し、再び神社に戻る。千石船も付く。千石船は出船、入船を行なう。

  • 生活の匂うまちである。国道北側では老木が目についた。槙囲いにしても高さといい、太さといい、立派なものである。

以上のようにかっての掛塚のまちなみは本町通りを軸に湊としての高度に都市的、 計画的な街路構造を持っていた。現在の街路網に明治23年当時の概略の町並みを重ねたものが 図3-1である。 明治22年の東海道鉄道開通によって掛塚の新しい歩みが始まるわけであるが、 図3-2 に、記憶に残る昭和初期の商店街の様子を示しておく。





津倉邸
3-4.津倉邸から林の池までの現況

本町通りから西側は現在主として住宅地に使われているが、その中の比較的狭い地域に津倉邸、林邸、稻勝邸といった掛塚湊時代の主要な廻船問屋の屋敷がかたまっている。本町通りに対してこの一体は住宅地としての利用が主なものとなっており、歴史財の活用、保存は落ち着きの有る住宅街を作り出すうえでも効果が有る。これらの敷地は周囲の道路などと共に面的保存に最も適したものであり、掛塚湊のおもかげを伝えるのに利用できる絶好の資産であると考えられる。現在、次のような状況にある。

  • 旧家では600坪に至る敷地が比較的まとまった形で、残されている。

  • 津倉邸にも格子戸等に当時の面影が残されている。

  • 津倉邸は資料館とするなど、将来的な保存に町が協力したい意向を伝えてある

  • 津倉家にもかなりな文書が保存されている。菱垣廻船については貴船神社にも資料がある。

  • 林家は現在東京に在住であり、屋敷の手入れに来ているという状況である。

  • 林邸敷地内の建物は早急に保全手段を講ずる必要がある。

  • 林邸のオオイタビー持ち主の意向があれば買収に応じられる

  • 稲勝邸





木橋の松
川の文化と海の文化の交差点を象徴するランドマークの風格がある。



国道150号線を走っても、殆ど見えない掛塚の屋並


ただの「混雑する交差点」になってしまった掛塚


現代の交差点はなるべく車を滞留させないようにつくられる。


時速100kmでは交差点は単なる看板と化してしまう。

3-5.掛塚のまちなみ構造
歴史的なまちなみの構造

歴史的な掛塚のまちなみは昭和30年の国道150号線の開通によって大きく変化させられることとなった。 それまでの本町通りを軸とした街路構造とは全く違う交通パターンが生まれた。 このため以前の表通りがそのまま幹線道路として利用されることでそれまでの歴史的蓄積が破壊される、 という各地で見られるパターンを辿らず、現在まで古き良き時代の掛塚湊の面影を残すこととなった。 そのかわりに商業的利用が主であった本町通りは次第に住居地域へと姿を変えてきた。 しかし現在の掛塚にも歴史的なまちなみの構造がくっきりと残されている。 図3-3 に示したようにこれは

  1. 本町通沿いの商店街

  2. 西側の地域を占めていた廻船問屋の屋敷

  3. 横町におかれた遊廓

  4. 西側の天竜川沿いの河岸に立地したかっての製材、木工関連の業務地域 とから成り立つ。

歴国道150号線とまちなみ

歴史的な街路構造についてもう一点付け加えておきたいのは 図3-4に示す掛塚橋についてである。 昭和30年の国道150号線および、掛塚鉄橋開通以前にも掛塚木橋、共栄橋、 十郎島橋と明治以来常に天竜川には橋が掛られてきた。 そしてそれ以前には渡し船が交通機関として利用されていた。 そして渡し船は単に河輪に渡すのみならず、遠く信州塩尻に至る天竜川水運の始発点でもあった。 そしてこれらの交通機関、橋はいずれも本町通りを幹線として、そこから派生する形で設置されていた。 これが本町通りの繁栄を形作っていたとも言える。 本町通りはこの地域の中心となる通りであり、渡し船も、橋も、中泉、 福田に通ずる往還もすべて本町通りという幹から生えた枝であった。 街路構造から見ればこれが掛塚湊の繁栄を証明する最大の遺構である。 東海道鉄道開通後も、街路構造が変わるまでは掛塚は長くこの地域一帯の交通の拠点でありえた。 掛塚木橋のたもとに馬車乗り場が設置され、人々はそこから本町通りを通って中泉往還、福田往還、 あるいは信州へと向かった。ところが国道150号線は本町通りを無視し、横断する形で設置された。 もはや掛塚はターミナルとしての意味をもちえず、通過地点となったのである。 いつしか遠州掛塚湊の繁栄は忘れ去られ、150号線沿いのただの町になってしまった。



小さなカーブ
常に視線を短くし、歩くにつれて景観が変わるので、 知っている人にとっては歩くにつれて道沿いへの親しみを強める。また用のない人は次第に不安になり、入りにくくなる。



西光寺
路地を曲がると、正面に建っている。計画的な強い直線性をもつ奥通りが、宗教的な荘厳さを感じさせる。



本町通り
大きなカーブを描いているので、東側の屋並は遠くから望むことが出来、人を引きつける。郵便局の交差点で通りが折れ、突き当たりに建物が配置されているので、遠くからでも交差点の様子が分かる。交差点に至ると、期待したとおり次の通りぞい景観が開けると共に、郵便局が突然あらわれることで印象を強める。正面が駐車場になったのが残念。
掛塚の道のしかけ

掛塚のまちなみについて、その景観構成要素で特筆すべきものに街路構造から来る景観ノード(結節点)の存在を挙げておきたい。掛塚のまちなみを構成する街路構造は縦横にきちんとした計画的街路からなり、近郊農村部とは際だった違いをみせている。これはかって掛塚が湊として栄えたおり、高度な都市的要素を持つ地域だったことを良く表しているが、現在の近代的都市計画から生まれる街路の景観に較べて、はるかに豊かな要素を含んでいる。

それは地域のあちこちに見いだされるアイストップを持つ街路である。現在、一般に行なわれる街路計画に見られる、直線からなる街路と十字路が、掛塚では曲がった道や、丁字路であったり、曲がりを伴う十字路であることが多い。いずれも自動車交通を主に考えた場合、道路の対流を惹起しかねないものとしてなるべく排除される。しかし、このような街路は、歩行者交通を主に考えた場合、そこに人間の「たまり」「かいわい」を作り出す仕掛けとして、注目されている。掛塚のまちなみにはこのような「歩いて楽しくなる」ための仕掛けが随所に見られる。掛塚のまちなみを豊かにしているこのような場所には、それぞれアイストップとなるような建物が配置されていたと考えられることも、注目に値する。

それらは多くの場合、計画的に作り出されたものではなく、 結果的なものではあるが、周辺の景観を構成する建物群が、 こうした街路の環境を長い間に巧みに取り込んで、豊かな景観を作り出している。 現代の計画的な町づくりが容易に達成できないこのような質の高い街路景観を、 掛塚の先人が自らのまちづくりの努力の中から産み出してきた過程も尊重すべきである。

これらの景観ノードは次のようにまとめることができる。

  1. 街路のカーブによるもの
    本町通りを歩くと、幾度か道がカーブしている。 カーブの大きさによって見通しが変わり、歩くにつれて変わる景観が楽しめる。

  2. 街路の突き当たりによるもの
    郵便局の様に街路の突き当たりに当たる場所には特別な配慮が払われて、 交差点の性格を強めるよう配慮された。西光寺の様に計画された配置と考えられるものもある。

  3. 土手によるもの
    小路、路地が天竜川に向かうときには土手の下が必ずアイストップになる。 この場所は地域と天竜川の結び付きを想い起こさせ、水防、水への信仰などの為の祠が祭られた。

  4. ランドマークによるもの
    木橋のたもとにあたる松は、こうした街路構造の中でも特に掛塚全体にかかわるものとして、 遠くから見通しのきく大木となるよう植えられた。
掛塚の中心部に見られるこうした街路の仕掛けと、演出される事項を 図3-5 に示した。 建物が建てられるときにもこうした街路構造に配慮することで、 単独の建物だけでは作り出せない効果を実現していることにも留意したい。

3-6.図