私事に及んで恐縮ではありますが、我が家の歴史からは昭和10年前後が抜けています。養蚕学校卒業後税務署に奉職した父は、「学歴がないからこのまま税務署にいても雇員のままで官吏にはなれない。それが満州へ行けば皇帝陛下の官吏になれる。」というわけで昭和8年の募集に手を上げて勇躍満州へ向かったのであります。そのため昭和8年は大同2年となり、康徳12年8月連合国捕虜になると、1947年4月博多に上陸して昭和の御代に戻るまでは父は西暦を生きていました。

昭和8年、新京に移り住んだ古山家は官舎が間に合わなくて旧市街に住んだのですが、昭和10年すなわち康徳2年には地方勤務をしています。




南嶺の整備状況(1942)
右上がネーチャンの卒業した東光小
新京市街地図
三重洋行 康徳8(1941)年刊
謙光社 1972年復刻(オラのネーチャン所蔵)



オラのネーチャンが馬車(マーチョ) に乗ってるトコロ。


「国都建設」が急ピッチで進む新京へ戻ってくるのが康徳7年。その後動物園の隣に新築された東安街官舎が完成して入居します。姉達によれば「課長級の二戸建の家で隣は建国大学の剣道師範、向いも建国大学の石井さんという家があった。官舎はトイレまでスチ−ムが通っていて、ガス風呂だった。窓は二重になっていたのでその間に夜ジュ−ス等を置いておくとシャ−ベットになった」そうです。 このあたり越沢明さんの「満州国の都市計画」(ちくま学芸文庫)に詳しいのですが、この本に載せられた康徳7年の「新京市街地図」というのを姉も持っていて、動物園のとなりの小学校と官舎に印が付けてありました。

昭和18年の浜松市立女学校の卒業写真を見ると1/3が靴、1/3がズックなど代用靴、1/3が下駄・わらじという時代ですが、新京では姉によると「女学校では張景恵国務総理のお嬢さんが2級上で、毎日黒い車で通学していた。武部総務庁官のお嬢さんとは同級」だそうで、在所の浜松市芳川村とは大分違った暮らしをしていたのでしょう。

新京の国都建設は東京都の震災復興計画が「後藤新平の大風呂敷」と叩かれて頓挫した理想を、ところを変えて実現したものだそうです。ブラジリア、キャンベラのような官庁街主体の計画ではなく、首都をそっくり新しく造る、というもので、オースマンによる19世紀のパリ改造に続く、20世紀を代表する首都建設ということです。直交する自動車道路とLRT、立体交差する遊歩道という、コルビジェの描く未来の理想都市もこの時代の発想でしょう。

その新京も旧市街では「通学路の道端に満人の行き倒れの死体がよくころがっていた」そうです。新築された政府職員官舎の暖房用スチームにしても、どんな人がどうやって燃していたか、姉の記憶にはありません。ボイラー室の記憶もありません。おそらく浜松銀行協会のボイラー室のようなものがあって、「子供が近付くところではなかった」ということでしょう。

母の残した本を片付けていたら、横溝正史のグロテスク推理ものが何冊もありました。書かれたのは昭和20ー30年代なのですが、筋書きは関東大震災から日中戦争に掛けて地方の旧家が崩壊し、後日の事件の原因を作る、というものが多いようです。狂人、それも先天的な障害というのでなく発狂者というのも良く出てきます。

ヴェトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争でも多数のPTSDが出ているようですが、沖縄で南風原陸軍病院が地下壕へ疎開する前の配置図を見たら、2/3程が精神科病棟なっており、なるほどと思わされました。暗い時代は戦争だけでなく、それに先立つ関東大震災でも死者・不明者15万人の陰に、それを上回る重度・軽度のPTSDを生み出しているのではないかと想像します。バブル期を思わせる関東大震災前の東京から始まり、震災復興の流れに乗って拡がろうとした「モダン東京」の流れの裏側、建築史の教科書に載るのが監獄の建物といった、考えてみると不思議な時代の匂いが、横溝正史のグロテスクさのカラクリであるように思えます。「大日本精神薄弱者協会」という障害者団体が、当局に呼びつけられて「大日本精神」が「薄弱」なのは怪しからん、とお目玉を頂戴する珍事もあったそうです。

銀行協会のボイラー室に不思議な雰囲気の漂うのは、気候温暖な浜松で考え出されたというより、厳寒の朝鮮・満州で考えだされたデザインだからではないでしょうか。そしてそこに人々は明るさと暗さの落差の激しかったあの時代の匂いを感じ取ってしまうのだと思います。

その後、暗い方の思い出はすっかり忘れてしまっていた父が、昭和35年に浜松城公園の馬糞置き場の裏に土地を買って家を建てたのも、「動物園の横なら新京と同じように良いところだ」と考えたのかも知れません。

(2004.12.28)



蛇に足を付けておきます。

康徳2(昭和10)年4月27日午後5時30分丁度、御召列車はしばらく前から演奏されていた「満州国国歌」の中を新京駅に滑り込み、国歌演奏が終わると同時に赤い絨緞の前にぴたりと止まったそうです。この時の列車運行精度は100分の数秒ではなかったかと思います。71年後、90秒の遅れを取り戻そうとする運転士は100名を越す犠牲者を出す列車事故を引き起こしました。

今回の事故は「列車の運行精度」なるものの意味するところが、この71年間で変わってしまったというところから来ているのではないでしょうか。71年前には満州帝国皇帝専用列車が1/100秒単位で運行される、ということが満州帝国の国家としての威信、ひいては大東亜共栄圏の盟主たる大日本帝国の威信そのものでした。それにくらべると、今回事故を起こしたJR西日本の福知山線で列車の運行精度は「早くて便利なJR西日本」という一私企業の商品性能でしかありません。求められるものが同じ「列車の運行精度」であっても、それを実現する現場労働者に与えられた環境には、雲泥の差があったと思われます。国鉄解体時の25兆円といわれる赤字は「国家の威信」の対価とも言えるでしょう。

今回の福知山線の事故はそうした「国家の威信」を掛けた環境整備をはぎとったまま、商品性能として求められる運行精度を職員の技量にゆだねる、という「お手軽」な民間活力導入の結果ではなかったかと思います。昭和10年はあらゆる犠牲を無視して我が国の「国家の威信」が頂点に上り詰めた時でもありました。

(2005.5.10)



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