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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
4-1.網代 4-2.川奈 4-3.稲取 4-4.下田 4-5.南伊豆 4-6.松崎 4-7.土肥 4-8.戸田 1.はじめに 2.戸田村の概要 3.戸田湊の概要 4.まちなみの様子 5.戸田の資源 6.問題点と課題 7.まちなみ再生の施策 8.活性化への施策
9.おわりに


戸田湊に休む弁才船
「戸田村100年」
村制施行100周年記念行事実行委員会編 より



現在の戸田漁港は
駿河湾独自の深海漁業基地として賑わっている

4-8-3. 戸田湊の概要

地形

戸田港は東西・南北とも約1.7km最大水深部40m、港口350mの巾着型の天然の良港で、 港を囲むように突き出た御浜岬が日和待港、避難港としての好条件を形づくっている。 御浜岬の港側には白砂青松の海浜が続き、波も穏やかで海水浴場の好適地でもあるが、 西側は対象的な岩石海岸で波も荒い。 戸田沖の駿河湾は内港では世界一の深さの海底渓谷で、カニの中では世界最大のタカアシガニをはじめ、 800種の貝類、1000種に及ぶ魚類が棲む海の宝庫となっている。

沿革

登呂遺跡から出土した石材が西伊豆産であることから、古くから海路により戸田と対岸の駿河や遠州が、 丸木船により交流が行われていたと推測される。 巾着型の天然の良港は、その後この入江を船溜りとする海賊衆のかっこうの根拠地となり、 北条水軍の基地としても使われた形跡がある。 また熊野信仰の伝播により紀州熊野から黒潮に乗って戸田に移住してきた氏族(長島、塩崎、野田、田丸等)も多かった。

御前崎から西伊豆先端へ向けて駿河湾を横断する航路は最短ではあるが、 よほど日和の良い日以外は駿河湾沿岸づたいに航海が進められた。 戸田湊は中でも港機能にすぐれ風待港として、物資の補給港として栄えた。

江戸時代に入り海上交流がいっそう発達すると水軍の末えいは優れた航海術により回漕業務に転換、 危険も大きかったが莫大な利益をあげることもあった。 港の近くには江戸城建設の石の積み出し場跡があり、 江戸の他に対岸の駿府や遠州にも江戸帰りの空船の重しとして石が運ばれ廻船業が栄えた。 320年ほど前の古文書によると、当時の戸田湊の船籍100漕の内73漕が廻船だった事でもその隆盛がうかがえる。

幕末にディアナ号の乗組員の滞在と戸田号建設により、 戸田湊は日本の歴史の一ページに大きくクローズアップされることになるが、 この点については次項で詳述したい。

明治時代も「沼津千軒、戸田千軒」と沼津と並び称されるほどの戸数をもって繁栄していた。 明治末期に東京帝大の「戸田寮」が御浜岬に学生の夏の合宿所として完成、 多くの東大生の夏の思い出を育んだが、現在も一部残っている。

しかし明治時代の後半になると、帆船から蒸汽船に移りかわる時代に乗り遅れた戸田湊は、 次第に廻船業が衰え苦しい時代を迎える。 漁師の知恵と努力でその後は漁業のまちとして発展し、 戸田の漁師の高い技術は近年まで遠洋漁業の基地として、村の基幹産業としての漁業をささえてきた。 しかし、昭和40年10月のマリアナ諸島海域に出漁中のカツオ漁船3隻が遭難、 全乗組員116人のうち74人が犠牲になるという戸田始まって以来の大惨事が起き、 「板子一枚下は地獄」という海の男たちの言葉を文字通り裏付けた。 その後200カイリの経済水域の決定にともなう遠洋漁業の不振や減船により、 漁業の産業的位置も相対的に低下、昭和55年以後は観光を中心としたサービス業が漁業にとってかわった。

また昭和30年代までは村民の重要な交通機関として、西伊豆航路の主力港として栄えたが、 道路の整備により自動車にその座を明け渡すことになる。 しかし、幹線道路の整備が遅れていて、陸の弧島的な状況にもあり、 他地域に比べて産業上も交通上も、まだまだ港が戸田では重要な位置を占めている。


大日本帝國陸地測量部
明治20年測量、明治22年刊
二万分一地形圖「戸田村」より

国土地理院
昭和58年改測、昭和60年刊
1:25,000地形図「達磨山」より




下田湾を襲った大津波、モジャイスキー画
「ペテルブルグからの黒船」
 大南勝彦 著、戸田村観光協会 刊 より



プチャーチン提督
戸田村立造船郷土資料博物館蔵



ディアナ号の模型
戸田村立 造船郷土資料博物館蔵



君沢型の帆船
「ペテルブルグからの黒船」
 大南勝彦 著、戸田村観光協会 刊 より
ディアナ号とヘダ号建造


■ディアナ号の遭難

安政元年(1854年)日露和親と通商条約の締結を求めて、 下田に来航していたロシア使節プチャーチン提督以下586人が乗ったディアナ号(2000トン)は、 大地震による津波で大破し、修理のため戸田港に回送途中、現在の田子浦沖で沈没した。 ロシア人たちは全員救助され陸路戸田にやってきた。 当時人口3千人の戸田村に5百人以上のロシア人がやってきたのだからそれは大変な騒ぎとなった。

宝泉寺と本善寺が宿舎に当てられたが、別に四棟長屋が急造され、手厚く保護された。 乗組員には外交接渉の代表と随員、牧師や医師までも含まれていて、当時のロシアの縮図でもあった。 幕府からの要請でもあったが、戸田村民はロシア人に温かく接し厚くもてなしたといわれている。 後に1887年(明治20年)プチャーチンの娘オルガが、32年前に父がお世話になったお礼に戸田を訪れている。 このことからも日露の温かい触れ合いが、ヘダ号建造を通して育まれたことが理解できるし、 ここに日露交流の原点があるといっても過言ではない。

■ヘダ号建造

プチャーチンは帰国するための代わりの船を、戸田で建造することを幕府に願い出た。 牛ヶ洞で戸田をはじめとする西伊豆一帯から船大工や人夫が集められ造船に従事した。 日本人とロシア人の国境を越えた協力が戸田村で始まり、 言葉の不自由さなど多くの困難を乗り越えて、わずか100日間で建造されたスクーナ船に、 プチャーチンは村民への感謝の意を表して「ヘダ号」と命名した。 2本マスト、全長22m、巾7m、排水量100トンの小型帆船ではあるが、 これは日本で造られた最初の近代西洋式帆船であった。 和船から西洋型船へと移りゆく日本の造船史上、戸田村は西洋式造船技術発祥の地なのである。 現在牛ヶ洞には造船記念碑が建ち、ディアナ号の錨やプチャーチンの遺品、 ディアナ号やヘダ号の資料が村立の造船郷土資料博物館に展示されている。

安政2年3月プチャーチン一行が帰国の途についた後、 幕府は引き続き牛ヶ洞のドックを利用して同型の船をつくるよう命じ、 計6隻の船を建造させた。これが後に幕府の海防に活躍した幕府軍艦「君沢型」である。

西伊豆はもともと古くから造船の伝統と優れた航海術をもつ地域であったが、 ヘダ号の造船が思いがけなくその後の日本が航海術や近代造船技術を発展させ、 造船国日本をつくりあげる礎となったのである。 宇久須村の鈴木伊三郎はヘダ号の建造で西洋式の造船と操船の技術を学び、 後に日本で最大の西洋式帆船旭日丸の艦長になり、 長州征伐や函館戦争で活躍した近代航海術の始祖ともいえる人物である。 また戸田村の船大工たちは、その後幕府の重要な造船計画に抜擢され、 上田寅吉は長崎で造船の伝習を受け、さらに榎本武揚らと共にオランダに留学、 維新後横須賀造船所の初代工長となり、明治の日本造船界をリードした。 また同じ戸田の船大工、緒明菊三郎は明治12年東京に出て独力で品川に造船所を設立、 明治の日本海運の発展に大きく貢献した。