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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
4-1.網代 4-2.川奈 4-3.稲取 4-4.下田 4-5.南伊豆 4-6.松崎 4-7.土肥 4-8.戸田 4-5-1.はじめに 4-5-2.南伊豆町の概要 4-5-3.手石 4-5-4.小稲 4-5-5.長津呂 4-5-6.妻良・小浦
1.所在・地形 2.沿革 3.妻良・子浦のまちなみの様子 4.妻良の景観資源 5.子浦の景観資源 6.妻良・子浦の問題点と課題
7.妻良・子浦の望ましいまちなみ 8.妻良・子浦の活性化への施策 9.おわりに



子浦(上)と妻良(下) 「いつにき」
海若子/文政5(1822)年南 松太郎蔵 より



洋式帆船の時代の小浦

2.沿革

その昔、妻良・子浦は通称松下湊と呼ばれ、三津、鯉名と共に伊豆の三湊といわれていた。 天然の良港は古くより水軍の活動根拠地ともなった。 吾妻鏡によると1185年3月、 源頼朝は西国で平家と交戦中の北条義時以下の東国の御家人をはげますため、 鯉名湊と妻良湊から、兵糧米を積んだ軍船32艘を出航させたとの記録がある。 その後北条早雲が伊豆を平定したとき、 妻良の土豪、村田市之介も伊豆各地の土豪と共に早雲の軍門に降り、 以来伊豆衆21人の1人として北条家の家臣をつとめた。

江戸時代になって、下田に船番所が設けられ、海の関所として、 船の検問取調べが行われるようになると、 妻良・子浦の湊は海路の宿場町として賑わい、船宿が繁昌した。 妻良の方は御城米船が繋り、子浦の方は一般廻船が泊まったので、 子浦の方が妻良よりも賑わったようである。 船宿の仕事は、船方の休息、船主との連絡、船を繋ぐ手伝い、 その他の、船頭等の身元保証も行った。船宿には大宿と小宿があり、 船頭は大宿に泊り、船方は小宿へ上り、夕食後は船番のため船に戻った。 宿は出入船の専属であり、屋号はその船主の国名がつけられ、

妻良の大宿には

播磨屋、広島屋、半田屋、御影屋、薩摩屋、大阪屋等、
小宿には
日高屋、伝平屋、淡路屋、新宮屋

東子浦の大宿には

浜条、新屋(あたらしや)、浜家、阿波屋、多須屋
小宿には
勝五郎屋、賀戸屋(かどや)、新八

西子浦の大宿には

大屋・尾張屋・御影屋・新宮屋・焼津屋・志摩屋・
中宿には
佐野屋・広島屋・岡部屋・紺屋等等があった。

また、子浦には料理屋も数軒あり、芸者や料理屋の女も船宿に呼ばれ、 三味線・太鼓・の音で賑やかだったという。廻船はこの地方では大和船とも呼んでいたが、 大きいものだと1600石積み(160t)ほどであった。 下り船(東京行)は南風を、上り船(大阪行)は西風を避けて入港、時には北廻船も寄港した。

停泊船の多いときは、数十隻もあり、日和待ちのための停泊が一ヶ月の長期にわたることもある。 そのようなときは、日和定めの草相撲が妻良の浜や子浦の西林寺境内で行われた。

寛政5年(1793年)3月24日、老中松平定信は海防計画のため長津呂湊から妻良・子浦を見分し、 子浦潮音寺に宿泊した。

安政2年(1855年)9月、幕艦昇平丸が妻良に風待ちのために入港した。 昇平丸には長崎に開設された海軍伝習所第1回生が乗っていたが、その中に伝習生として勝麟太郎がいた。

文久2年(1863年)12月末に、徳川14代将軍家茂は、 御座船鶴丸以下幕府の艦船を率いて再上洛の途上、風待ちのため子浦へ入港上陸し、西林寺に滞在した。

このように、日和待ち港としての賑わいとは反対に、長津呂、波勝崎沖は航海の難所で、海難事件も多かった。 特に大きなものには、明治7年(1874年)3月のフランス郵船ニール号の遭難や、 明治33年(1900年)9月、妻良の伝平丸と子浦の万太郎丸の台風による遭難がある。

妻良子浦間の陸路は険しい山道であったので、両部落を結ぶ交通は江戸時代より、渡船が使用された。 大正、昭和初期の養蚕の盛んな頃は、子浦では繭の取引が行われ、製糸工場へ繭が渡船で運搬された。

明治後半、帆船から蒸気機関に移行、鉄道の発達で海運が衰退すると、 船宿も減り、妻良子浦もかつての賑わいはなくなり、半農半漁の集落となった。 その後、県道の開通や南伊豆道路(マーガレットライン)などの道路網の整備により、 優れた景勝地として脚光を浴びるようになり、昭和40年代初め頃より民宿村として再び賑わいを取り戻した。