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![]() 目次 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 7.妻良・子浦の望ましいまちなみ | ||||
子浦(上)と妻良(下) 「いつにき」 海若子/文政5(1822)年南 松太郎蔵 より 洋式帆船の時代の小浦 |
2.沿革その昔、妻良・子浦は通称松下湊と呼ばれ、三津、鯉名と共に伊豆の三湊といわれていた。 天然の良港は古くより水軍の活動根拠地ともなった。 吾妻鏡によると1185年3月、 源頼朝は西国で平家と交戦中の北条義時以下の東国の御家人をはげますため、 鯉名湊と妻良湊から、兵糧米を積んだ軍船32艘を出航させたとの記録がある。 その後北条早雲が伊豆を平定したとき、 妻良の土豪、村田市之介も伊豆各地の土豪と共に早雲の軍門に降り、 以来伊豆衆21人の1人として北条家の家臣をつとめた。
妻良の大宿には
東子浦の大宿には
西子浦の大宿には
また、子浦には料理屋も数軒あり、芸者や料理屋の女も船宿に呼ばれ、
三味線・太鼓・の音で賑やかだったという。廻船はこの地方では大和船とも呼んでいたが、
大きいものだと1600石積み(160t)ほどであった。
下り船(東京行)は南風を、上り船(大阪行)は西風を避けて入港、時には北廻船も寄港した。
停泊船の多いときは、数十隻もあり、日和待ちのための停泊が一ヶ月の長期にわたることもある。
そのようなときは、日和定めの草相撲が妻良の浜や子浦の西林寺境内で行われた。
寛政5年(1793年)3月24日、老中松平定信は海防計画のため長津呂湊から妻良・子浦を見分し、
子浦潮音寺に宿泊した。
安政2年(1855年)9月、幕艦昇平丸が妻良に風待ちのために入港した。
昇平丸には長崎に開設された海軍伝習所第1回生が乗っていたが、その中に伝習生として勝麟太郎がいた。
文久2年(1863年)12月末に、徳川14代将軍家茂は、
御座船鶴丸以下幕府の艦船を率いて再上洛の途上、風待ちのため子浦へ入港上陸し、西林寺に滞在した。
このように、日和待ち港としての賑わいとは反対に、長津呂、波勝崎沖は航海の難所で、海難事件も多かった。
特に大きなものには、明治7年(1874年)3月のフランス郵船ニール号の遭難や、
明治33年(1900年)9月、妻良の伝平丸と子浦の万太郎丸の台風による遭難がある。
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