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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
4-1.網代 4-2.川奈 4-3.稲取 4-4.下田 4-5.南伊豆 4-6.松崎 4-7.土肥 4-8.戸田 4-5-1.はじめに 4-5-2.南伊豆町の概要 4-5-3.手石 4-5-4.小稲 4-5-5.長津呂 4-5-6.妻良・小浦
1.所在・地形 2.沿革 3.妻良・子浦のまちなみの様子 4.妻良の景観資源 5.子浦の景観資源 6.妻良・子浦の問題点と課題
7.妻良・子浦の望ましいまちなみ 8.妻良・子浦の活性化への施策 9.おわりに





妻良湊廻船水汲場付近の石理

4. 妻良の景観資源
自然景観

■ダイナミックな海岸美

妻良港から南へ、鯛ヶ岬(根ヶ崎)へかけての海岸線の岩肌の紋様に目を見晴る。途中までは波打際の遊歩道が整備されている。遊歩道の脇には廻船の水汲場があり、昔から井戸が大切に保全、管理されてきた。長期間を海上で過ごす廻船では、水は米と同等以上の貴重品であり、水を求めての寄港もあったことがうかがわれる。飲料水としての成分分析などを確認したうえで、「海上延命の水」等としてヨット、ウインドサーフィンなどで余暇を過ごす若者に売り出すのもよいであろう。海中に廻船の船繋ぎ石が見えるかっての船溜まり付近には海上アスレチックも整備されている。付近には岩の断層や幾何学模様の線を刻んだ、大規模な柱状節理などが見られる。億単位の昔の自然による造形であり、伊豆半島の生い立ちに触れることが出来る。千貫門は堂ヶ島ほどの壮大さはないが、船の通り抜けができる自然の海門もある。

■日和山からの眺望

妻良の集落から西へ約1キロ、幅3m程のコンクリート舗装道を行くと、右手に小高い尾根が見える。頂上まで約150mの急坂を登ると、「夫婦岬」と呼ばれる標高約100mの妻良日和山の頂きに着く、足元には方角石が残っている。こゝで風向きを観測して、湊の船に合図を送ったといわれ、かって、日本の海上交通の大動脈であった時代の面影である。ウバメガシ樹林の向こうに紺碧の妻良湾の素晴らしい眺望が開け、対岸の子浦、右岸の妻良の集落がよく見える。

■海上からの景観 

子浦とも共通するが、船上からの海岸線の景観はみごとで、特に夕陽の美しさは西南伊豆独自のものである。

海の幸・山の幸

船釣や定置網漁の見学ができ、宿泊客は捕りたての新鮮な魚貝類を食べられる。妻良では漁業が盛んであり、民宿の特色として他に抜きんでている。

■山菜

ツワブキなど海岸独自のもの、アシタバのような南国を味わうことの出来るものがある。

歴史財

伝統芸能

■妻良の盆踊り

毎年8月15日の夜、前の浜で行われる。身振り手振りに一種独特の優雅さがある。音頭の調子も哀愁があり、他の盆踊り歌にあまり類がない。由来については二説あって定かではないが、日和待港として多くの人々の往来があり、風待の人達の手で、芸能が伝承されてきたものと思われる。昭和46年に県の無形文化財に指定された。宿泊客にとっても他では触れることの出来ない独特の盆踊りである。しかし、いわゆる「盆踊り」としてはなじみにくい面を持っているようである。例えば民宿で「妻良の盆踊り」の由来、特徴、踊り方などを解説する資料、ビデオ等があれば、より「妻良の夏の風物誌」として観光客になじんでもらうことが出来よう。

三島神社さんとうじんじゃの祭典と三番叟

毎年11月1日が宵宮で、2日が本祭である。奉納三番叟は拝殿で行われる。千歳、黒木、おきなの舞、黒木と千歳の問答、黒木の鈴舞で終る。妻良の三番叟は、山形県の黒川能に似ており、原形を保持している。

彫 刻

■三島神社本殿の彫刻

本殿正面に彫られた竜・亀・鶴・獅子があり、松崎町出身の彫刻師、石田半兵衛の作である。善福寺の厨子も同じ半兵衛の作品である。


妻良・日和山の方角石


妻良村絵図面(妻良公民館所蔵)

建築物等

■三島神社

妻良で一番古い起源を持ち、祭神は大津住命おおつゆきのみことを祀り、南伊豆に現存する「式内社」十座の内の一つである。

■竜灯山善福寺

俗に「下の寺」と呼ばれていて、本尊は大日如来、本尊の左手には弘法大師もまつられていて、伊豆八十八所の霊場でもある。幕末に勝海舟が宿泊しており、「海舟の間」として残されている。俳人高浜虚子とのゆかりもあり、昔から句会が開かれている。

■花水山良泉寺

「上の寺」と呼ばれ、文字道り美しく、瀟洒な佇を見せている。弁財天と33体の観音がまつられている。妻良水道の創設者で、江戸時代末期に木管を土中に埋めて引水して水道とした、土屋忠八翁の墓地がある。また、明治7年に起きたフランス郵船「ニール号」の座礁事件の時、フランス領事館の出張所として使用された。

■夫婦岬(妻良の日和山)の由来

風の凪いだ日には漁師の妻2〜3人が組になってこの岬に立ち、はるか沖合より来る船の合図{陸近くして無風となった船はマネ(合図の物)を上げ引き船を頼んだ}を見付け、妻良の浜で待機している夫のもとへ、合図の赤い腰巻きを棹につけて上げた。これを合図に夫達は六丁櫓建ての船2艘にて出掛けて行くのである。この引船料がその日の糧となった。夫婦協力したこの岬はいつしか夫婦岬と呼ばれるようになった。

■日和山の方角石

妻良における上り船の日和待ちの為に使われてもの。かって日和待ちをしたころの眺望が整備されれば、特に冬の風の強い時期、一層当時の船旅の姿を想い起こさせるものになるであろう。通年観光の為の資源としても利用を考えたい。

■絵地図

妻良の公民館には、旧妻良村の絵図や、珍しい江戸から難波までの海図が保存されている。善福寺、良泉寺に保存されている史料と共に、妻良子浦が我が国の情報流通の最先端にあったことを物語る貴重な史料である。